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加筆、そしてお礼とお知らせ

加筆

  ここから先は追加部分です。夕飯の支度の時刻が迫っていたので急ぎ切り上げたのですが.

 日記なら人に見せることを前提にしないから何を書いてもいいのですが、ブログに書くときは迷ったり考えたりします。でも誰かと自分の知らない人ともコミュニケイションすることの積極的な意味もあるのではという気持ちのほうが若干強くなったりして書いています。

  最近考えていたこと、前回も触れましたが、これからの日本の進み方を巡って重大な変換点にきているという認識は安全保障関連法案の審議の中にも、賛成反対どちらの考えの人の中にも共通した認識のように思います。その法案が今朝国会で議決成立したようです。この成立を持って終わりではない、一つの重要なエポックであることは確かですが、ある意味では平和主義と現憲法の理想主義では平和を守れないという考えとの相克がはっきりしている結果のように思います。今回の国会審議の過程ではっきりしたことはなんでしょうか。

 いろいろありますが最も大きな問題の一つは現憲法が明示している集団的自衛権の否定を解釈によって変更したことだと思います。現実的には日米軍事同盟の強化と日本の軍隊がアメリカの防衛も一部負担する可能性に道を開いたことではないかと思います。自分の国が他の国から攻撃された時の自衛権は今までも憲法上も認められると考えられていたのですが、これからは日本が直接攻撃されていないときでも、同盟関係にあるアメリカの戦艦や戦闘機、通信その他の防衛が法律上可能になり、実際上は日本とアメリカの共同軍事行動が強化されるでしょう。この安保法案の前に秘密保護法が制定され、どういう歯止めがかかるのかは明確にはされなかったことではないでしょうか。国民が一番懸念していることは、安倍政権が最初から国会での安定多数の上に、国会審議より前にアメリカにおいて法案の成立を約束し、国会審議の中でも、重要な野党の指摘にはあいまい、時には前後の統一のないはぐらかしの答弁に終始、疑問は明確にされないまま、採決されたことです。日本の憲法は今も健在です。日本憲法の平和主義は世界が混沌とし、暴力による制圧、衝突が繰り返され、希望が損なわれ、その犠牲となる人々が数多くいるなか、人類の行く末を考えるうえでも大事な理想だと思います。現実は単純でもなければ、一つの考えで進むわけではないのですが、複雑さの中で理想は追求されなければならないと思います。

 一国だけで平和は守れないということが法案賛成の人から多く聞かれました。現憲法の平和主義を世界の憲法にと考える人たちでも一国だけで平和が守れるなどと考えている人はいないでしょう。どう平和を目指すか手段の問題で、アメリカとの軍事同盟を強化することが世界の平和貢献に役立つという考えについても、このことが安保法制の理由でもあったのですが、もっとしっかり国会で討論すべきことではなかったかと思います。アメリカも一つではありません。どんな大統領が出るか、いろいろな考えがあり、またアメリカも自国の国益を考えることでは他の国同様でしょう。日本に自分の国の国民の生活安全からイエス、ノウをはっきり言う力があるのでしょうか。

 それはこれから主権者である国民が決めることだと思います。若い人たちが政治に無関心と長いこと言われてきました。六十年代から七十年にかけては若い人も政治に関心を持っていたと思いますが、それから四、五十年の間に変わりました。だが、これからの国の在り方、暮らしは彼ら自身、若い人の問題でもあります。地球の未来、人類の未来を考えれば戦争は絶対悪であり、解決されなければならない問題は複雑で多様だと思います。学んで知恵を出して、古い時代を超えてほしいと思います。そして隣の国、中国、韓国、北朝鮮とどうしたら平和な関係を築けるか、考えてゆきたいですね。

  信仰としてではなく、特にお釈迦様の本を時々読むようになって、私(自我)と空、無私との関係が気になっていました。私はいるのに「空」とか「無私」とか実際にいる私とどういう認識になるのかしら、長い間疑問だったのですが、だんだん腑に落ちてきたように思います。実際の私は苦しいとか、悲しいとか不安とかをしばしば感じたりして、つい最近だって、なぜか哀しくて、不安で無力感にとらわれていたりしました。実際に生きている人間は喜怒哀楽から自由に無関係ではいられない。釈迦がこんなことを言っているというのを小池龍之介さんの「ブッダの言葉」で読んだことがあります。「私はこれまでいろいろのところに出向き、いろいろな人に出会ったが、自分が一番かわいい、そうでないという人に出会ったことはないと。」人は自分が一番かわいいのだということを認めていいのだと思います。しかし人は生まれ落ちたその瞬間から人の中に、世界の中の存在として生きるのですから、たった一人誰もいない孤島で生涯生きるのでないことを考えれば、私だけの世界などでないことがわかります。ですから人の一生は自分と他人、自分と世界との関係の問題なのでしょう。そこにまた生きることの意味、豊かさもあるのでしょう。

 人生を背後から操る黒幕は?生存本能の無意識な命令のままに無自覚に支配される奴隷のような、自己愛とか我執といったもの、それが黒幕なのだとお釈迦様は悟られた。他者と自分との関係やカルマの法則を自覚すること、自我や自分の欲望といった自分を超えてみることが必要なのかと思いました。ある意味の自己否定、無になるということなのだと思いました。小池龍之介さんの「ブッダの言葉」によると欲、怒り、迷いという名の悪をつくらず、心を善く整えておき、心を清め性格を改善してゆくこと、これが仏教の教えのエッセンスという言葉、よく考えてみたいと思いました。

 お詫び&訂正 &お知らせ 

  阿部、どうも変? 阿部って誰じゃ。ずっと間違ったまま、私の頭大分老化しつつあるかも。安倍の間違いです。昔からうっかりしているところがあるので、すみませんでした。

   今回の記事を最後にこれからの記事の更新はおわりにしようと思います。長い間訪問やナイス、コメントをくださいました方々に深いお礼を申し上げます。いろいろな方のブログへの訪問はこれからできるかと思いますのでよろしくお願いいたします。ちょうど始めてから十年、その間に書いた記事はかなりの数なのですが、そもそもブログを始めた中心テーマのなかから一部だけ消去しないで残すことにしました。最近若いかたの訪問もあったように思うのですが、高齢の人にとっても若いこれからの人にとっても課題は同じ、意見の交流があるのは大切と思います。家族、社会、主体などのテーマの過去記事ものぞいていただけたら嬉しくいます。

            2006年10月から始めたブログ,マンネリ化したように思い閉じましたが、新しいブログを更新しています。

  http://it18skbl.blog.so-net.ne.jp/  hikariと雲と  気が向いたらお立ち寄りくださいませ。


考えるということについて、思うこと。 [日々のくらしから 家族、社会、自問]

 先ごろなぜ女の人はいつまでも子供を手放さないのかといわれたことについて書いたけれど、おそらく同じころだと思う。 真面目な人は考えるということを重要視するが、考えることにあまり意味はない、もっと気楽に生きることが必要だという意味のことを書かれているコメントに新聞でであったことがあった。今でもあまり考えても仕方がないということはよく言われるし、わたしにもなにかのときに気使って心配してくれる人もいる。新聞に書かれたコメントはオウムなどの事件があったころのことで、その影響、反動などで何か一つのことに集中しすぎること、視野が狭くなることへの警鐘の意味が含まれていたのだと思う。考えすぎるのもバカだが、考えないのもバカであるという言い方もあるし、それではその中間をとって適当なところで考えればよいのかということにもなるが、私はAかBかじゃなく徹底して考えるべきだし、徹底して考えることから離れるべきだし、その時、その時場や状況物事にあわせたいと思う。こだわり、疑問、それが自分にとって重要なものなら徹底して考えたいと思う。

 生活が否応なく考えることを強いる。苦しいことがあるから考える。考えなければ苦しい事はなくなるというのだろうか。考えるという行為について、あの時のコラムにひっかかりを感じて以来ずっと問続けてきたのだと思う。そしてここにきて何かはっきりしてきたように思う。認識について、人が生きるうえでの四苦八苦について、行為について、生きる意味や努力について、自由について知ることの大切さを知ったように思う。考えるということは人がもつあらゆる器官を使って学ぶことと同じなのではないかと思う。認識の先に自由があるのだと思う。

 ちょっと考えればわかること、よく考えればわかることと思うことが多くなったように思う。本当によくよく考えてみなければ間違えてしまうと思うことも多くなった。そんな中で、最近であったお釈迦さまの教えが身にしみました。

 人の心というのは、ほしいままに、赴くままにさせたら、自らを滅ぼしてしまう。だから自分の心を自分で統御しなければならない。心によって悪い行いを抑え、よい行えをするように急げ、善をなすのにのろのろしていたならば、あなたの心は悪いことでいっぱいになってしまいます。


違和感 [日々のくらしから 家族、社会、自問]

 安全保障関連法案を巡る国会審議がはじまっています。国論は大きく言うと二つにわかれているようです。一つは世界情勢の変化に伴い、集団的自衛権が必要である。さらに戦争の放棄、武力行使の禁止をうたった憲法の縛りから、時代に合った安全保障政策に変えていこうという考えと一方には国際紛争解決の手段としての国権の発動としての戦争、武力による威嚇又は武力の行使は永久にこれを放棄すると定めた憲法九条を守り、さらに他国との関係において一層憲法9条の考えを追求すべきという考えとの間の開きのように思われます。複雑でわかりにくいのは解釈改憲によって明らかな憲法九条との矛盾をむりやり推し進め事実上の改憲をしていることだと思います。

 安全保障関連法案の成立を必要とすると政府がいう世界情勢の変化について、日本の存立があやうくなるかもわからないような緊張や武力衝突の危険とよく考えないでスラスラと受け入れていいものなのか、どうも違和感をぬぐえません。その世界情勢をどうみるかということも大切だと思います。さらにもし、国家間、地域間の紛争や対立のようなものがあるときほど戦争や武力の行使を避け国と国、地域間の平和への努力が必要と思うのですがどうでしょうか。戦後の日本は戦争の放棄と交戦権の否定のもとでそういう努力もしてきたと思います。今議論されている安全保障関連法がそのような目的にそうものなのか国民一人一人が真剣に考えなければならないのだと思います。

 曽野綾子さんの「ある神話の背景」を読んだのはもう何十年か前でしたが、今もう一度読んでいます。沖縄の渡嘉敷、ケラマという島の名前を知ったのはこの本でしたが、読んだ時の衝撃が大きかったので、友人の何人かに感想をはなしたことがあります。友人の一人は曽野綾子さんの本を読むとイライラして頭が痛くなるといっていましたが、読みなおして確かに視点が独特だと思うところがあるように感じました。それはさておいて、本に書かれていることは衝撃的で重い内容です。曽野さんはそれぞれの立場の人の証言を選択しないで載せているので、島に最後まで残った人間魚雷を装備した海上特攻隊の赤松隊の状況や軍人の考え方、家族が家族を殺しあう悲劇の背景が見えてきます。この本を読むまで、いろいろな映画や本などで知ってはいましたが、本当の戦争の惨さ、非人間性、どんなに戦争が平静からほど遠い地点に人間を連れ去るものか、あらためて真実を知らされたと思いました。沖縄だけではありません。こういうことをこれからの世代に味あわせることはあってはならないと思います。大東亜戦争当時も今も沖縄が背負わされてきた過酷な歴史を思うと沖縄の人びとが世界で一番危険といわれる普天間基地の撤去を願い、さらに新しい基地の建設には県民がひとつになって反対する気持ちは当然だとわたしは思いました。

 不安感と違和感の中で、保坂正康氏の「本当に平和ということを考えるならば、戦争を知らなければ決して語れないだろう。だが日本という国は、あれだけの戦争を体験しながら、戦争を知ることに不勉強で、不熱心。日本社会全体が、戦争という歴史を忘却していくことが一つの進歩のように思いこんでいるような気さえする。国民的な性格の弱さ、狡さと言い換えてもよいかもしれない。」という言葉を重く、受け止めたいと思いました。


あの時からどれだけ変わったか。 [日々のくらしから 家族、社会、自問]

 もう二十年以上も前、阪神大震災があり、その後、地下鉄にサリンがまかれるという事件があった。その頃のある会話を思い出す。どうして女の人はいつまでも子供を手放さないのかと質問された。今思っている結論を言うと、家族などの関係でも基本的には自分について考える、自分に責任をもつということしかないのではないかと思っている。自分についてというといかにも利己主義に聞こえるけれども、自分を考えることは他人との関係の中の自分について考え、生活することだと私は思っている。他人がどうするかはその人が考えることで個人に完全な選択権を認める以外にないのだと思う。他人から何を得るかはその人の問題で、もし幸福なよい関係というものがあるとしたら、他人からたくさんのものを学ぶことなのだろう。自発性と理想が生活を決めていくのではないだろうか。

 和真の遊歩道の「個人主義と政治」という記事にも同じテーマを感じました。アドラー心理学と個人主義、お釈迦さまにも同じものを見出すように思いました。

 追加。

 最近こんな本をしりました。「我を考えること。近代理性主義の克服」赤堀芳和著 講談社

 ラッキー、図書館で借りることができたのでこれから読もうと思います。

 ミスのお詫び。「和親の遊歩道」と書いていましたが正しくは「和真の遊歩道」です。神戸大震災、地下鉄サリン事件は十年前ではなく二十年前でした。


弱者に対して恐ろしいほど酷薄な国 [日々のくらしから 家族、社会、自問]

日刊スポーツの政界地獄耳という記事で、岩波書店のPR誌、図書での赤川次郎さんの言葉がのっていました。

 政府の産業競争力会議での女性を活用という成長戦略について「今、日本は弱者に対して恐ろしいほど酷薄な社会になってしまった。とくに子どもの貧困や、母子家庭の半分が年収120万以下という状況は、とても文明国とは言えない。こんな状況を放置して「女性の力の活用」など平然と発言できるのはどういう神経なのか」、、、という内容、日ごろニュースに接するたびに感じていることと同じでした。日本は弱者に酷薄、鞭打つような国になっていると感じるのは多くの場合自己責任と思われているからかもしれません。誰も問題を表に出すことができない、それは自分の努力の足りなさ、責任を公にすることでしかないからです。

 次の時代を担う子どもを育てることがどんなにたくさんのエネルギーのいる、重要な仕事であるか、だれかに頼んで自分は働きにでればいいというような問題でないことは当事者が一番知っています。子どもを育てる仕事と女性も社会的な仕事に参加して社会に貢献できる、あるいは経済的な力も持つということは自然で国が本来するべき重要な施策でしょう。女性が活躍することで社会がもっといろいろの人間的可能性を広げることはできるということはいえると思います。でも成長戦略の一環として女性の活用をと今言われていることはご都合主義で女性を利用しようとしているだけ、とても大事なことが抜け落ちているように思われてなりません。子どもを育てることができなくなったり、一層の過重労働と総体的貧困化に拍車がかかるようであってはならないと思います。

同じ産業競争力会議で深夜の電車やバスなどの運行をさらに広げようという政策が検討されているとニュースになったことがありました。深夜にバスや電車を動かす人がなければ電車は動きません。夜中に命に係わる重大な病気になった人が診てもらえるお医者さんがなければ困るでしょう。夜中に起きた火災の救助にむかってくれる消防士さんがなければ困りますが、深夜労働はできるだけ必要なものに限られるべきでしょう。そしてそういう仕事にはきちんとした対策が取られるべきでしょう。しかし夜眠ること、家庭に父や母がいることは人間にとって、子供にとっても大切なことです。経済活動が昼夜を問わなくなることによって働く人の仕事の仕方も変わる、疑問は膨らんでしまうばかりです。命が守られる政策は第一義的であるべきではないでしょうか。


シンプル [日々のくらしから 家族、社会、自問]

人生って想像したり考えたりするより、明確でシンプルなのかもしれないなんて最近思っている風船蔓です。

それをごちゃごちゃにしたり、複雑にしたり、自分を困らせたりとカオスにするのは人間なのかもしれない。


細木数子さんの六星占術を読んでいました。人間の世界というのはひじょうにきびしい因果の法則が成立していると細木さんは書いています。本当にそうですね。釈迦もすべてのことが因果の上に成り立っていると説きました。因果の行く末に心を払わない、もしくは不明、自分が望まない結果を招来するとしたら人間ってかなしい存在ですね。
一即多、多即一であっても、一である私は本当に小さな微粒子のようなもの、自分の手足の届くところで考えます。自分も他人をもできるだけ傷つけないようにと。

そしてあなたを大切に思っている、幸せであることを祈っていると伝えたい。

 今日の昼ごはん、なににしようか。生活防衛一段とがんばって。一山五百円のトマトと玉ねぎを使って。玉ねぎはちょっと品が落ちますが、使いでがあります。庭の朝どれハーブを使って。

 サケの塩焼き、とまとサラダ、きゆうりとなすのめかぶとろろあえでした。


大人になることのむずかしさを読んで  3 [読書]

 なぜ現代モラルハーザードともいわれるようなことが進行するのでしょう。ニュースを見るのが怖いし、暗い気持ちにもなったりします。しかし、暗い気持ちにばかりなっているわけにはいきません。未来はもっと明るい希望のあるものでなければならないと思います。未来の彼らが平和のうちに力強く生きていけることを願わずにいられません。

 話を「大人になることのむずかしさについて」の感想に戻そうと思います。

 この書物のなかで河合さんは厳密に言えば大人といっても日本的大人なのか西洋人的大人なのかという問いが成立するほどこの問題は難しいということを言われています。日本人の自我の形成と西洋での自我の形成にはちがいがあるからで、日本人がその自我を作り上げていく過程で、西洋人とは異なり、はっきりと自分を屹立しうる形で作り上げるのではなく、むしろ自分を他の存在のなかに隠し、他を受け入れつつ、なおかつ、自分の存在をなくしてしまわないという複雑な過程を経てこなければならない。しかし、それが、他にたいする配慮のあまりに常に他の人はどう考えているのか、他の人に笑われないようにしようということが強くなりすぎて、西洋人からは「自我がない」というようなことになってしまいかねない。しかし両者のあり方は一長一短であり、軽々しく判断を下すべきではないと筆者は考えていると述べていらっしゃいます。大人になるということの中には絶えず自分としての自己の在り方と相手との関係ということがあるわけで、西洋人の他と切り離して個として確立しており、自分の存在を他に対して主張していく西洋流も行きつまりが見えてきて、今最も大切なことは従うべきモデルがないということを、はっきり認識することではないかという河合さんの指摘は迷い悩み苦しんでいる若者にとっても大人にとっても考えるうえで重要だと思いました。そこから自分たちの課題、やるべきことが見えてくるのかと思います。

 日本人的な自分のつくり方にしろ、西洋人的な自我の形成にしろこれからの時代がすべての人間の尊厳が守られ、平和の裡に自分を成長させながら、自己実現が可能なような世界であってほしいと願うのですが、人にできることは自分についてにつきるのでしょう。

 先ごろ、NHKのクローズアップ現代で若い女性の貧困がとりあげられていました。若い女性の多くが不正規労働で、仕事先も不安定、賃金が安く、労働時間も長い中で子育てをしたりしています。仕事と育児と経済的貧困などの中でぎりぎりの生活をしている人も多い。希望なんてない、夢もないという若い女性たちの言葉。彼らがこれから子どもを育て、社会の中心になる人たちであることを考えたとき、若い人たちの前に立ちはだかる壁の大きさ、彼女たちが背負っている課題の大きさに心がいたくなりました。人として成長していくことと社会の成長、特に経済的成長とはどんな関係にあるのでしょう。本来は別の問題だと思いますが、関係するとしたらどんなふうに関係するのか考えてみることが重要だと思いました。生きるために食べなければならない、そのことが自立や自己決定を阻んでいるということはないでしょうか。食べることができない、命を維持することが難しいという状況があればあるほど心を拘束する社会の支配の仕組みは強固になるのではないかと思うのですがどうでしょうか。

河合さんは「この本を大人がどうすればよいかという視点より、青年たちはいかに苦悩しているかという視点で書き進んだ。我が国の青年の直面している問題を共に考えていこうとするものである」といわれています。この本を読み終わって、若い人たちの一つ一つの出来事にこせこせしないでゆっくり、ゆとりのある気持ちでいたいと思いました。


大人になることのむずかしさを読んで。続 [読書]

大人ということはふつうにどこでも使っていることで、何もそれほど難しく考える必要なんてないともいえますが、一方では人として成熟するということはだれもが思い描くことであり、人がたった一人で生きる存在でない以上、人と人、社会、あるいは自然界との関わりの中に存在しているわけで意識するしないにかかわらず関係のつくり方の中に成長や成熟、赤ちゃんから子ども時代の保護から自立し、一人の個人として調和的円満な関係を作りつつ、社会の一員として何らかの役割をになうということがあるだろうと思います。保護の時代から自分に責任のもてる社会の成員として自立する過程にさまざまな困難や危険、つまずきが付きまとうわけで最悪の場合、再生に至らない死のケースまであります。

河合隼雄さんは心理療法家として多くの青年のそうした大人になろうとする過程で受ける自殺、ノイローゼ、家庭内暴力などにみられるような心身の深い傷からの立ち直りを援助することをしていらっしゃいました。

 河合さんは次のように書いていらっしゃいます。

 筆者(河合さん)の仕事の中核は、実のところ「見守る」ことにあると思っている。つまずきから立ち直る「良い方法」を筆者が教えてくれると思ったり、何か助言を与えてくれるものとして期待してやってこられるが、ある個人が本当に成長することは「その人なり」の道を自ら見出し、作り上げていくことであり、他人が軽々しく教えたりできるものではないのだ。したがって、その間、その人が苦しい道を進んでゆくのを見守ること以上にすることはないのである。といっても、このことがどれほど難しく、苦しいことだとわかっていただけるだろうか。見守るということはその人にできるだけの自由をゆるし、常に期待を失わずに傍らに居続けることだといえる。期待を持ち続けるためには、人間の可能性を信頼することを学ばねばならない。期待を寄せていくことは物事をよく見ていないとダメである。

 人が本当に成長することはその人なりの道を自ら見出し作りあげていくこといがいにないということ。他人が軽々しく教えたりできないということは厳しく心に響きますね。また人間の可能性を信頼することを学ぶということも決して簡単なことではないけれどとても大切なことなのだと思います。

 大人になるということの中に近代では進歩の概念がふくまれるようになったとあります。進歩とは何か、社会の進歩と個人の成長はどうちがうかということに問題があり鍵かと思います。進歩の意味について、それと近代以降に抱える人間の心の問題を考えてみたいと思います。


大人になることのむずかしさを読んで [読書]

河合隼雄さんの「大人になることのむずかしさ」岩波書店に初めてであったのは親として子育てに悩むことが多かったころです。ニ十年後の今改めて読み直してよりはっきりすることが多くありました。それと同時に大人になるということがどんなにむずかしいか、大人の意味についてもっと考えなければならないと思いました。

人は生きるうえでいろいろの課題にぶつかり、自分の課題を知ることを余儀なくされ、またそれを知ることがとても重要であることがあると思います。「大人になることのむずかしさ」に書かれたことは全く自分がぶつかってきたことだったと感じます。そして今もその課題は続いています。

「大人になることのむずかしさ」から深く印象に残ったことをいくつか拾ってみたいと思います。

古代社会と近代社会の違いと特徴

古代社会にあってはすべてのことは原初の時に起こったのであり、すでに出来上がっているもの、あとから生まれてくるものはその世界に入れてもらうのであり、こどもたちが大人になるためにはその世界に入る儀式としてイニシエーション儀礼が決定的な意味を持つ。イニシエーション儀礼を通過することで子どもは大人となる。その世界はできあった世界、閉ざされた世界で進歩の概念はない。

それに対し、近代社会以降社会の進歩という概念が持ち込まれ、自分自身も変化していかない限り社会から取り残されてしまう。社会の進歩は単純に示せるものではないので、個人が子どもと大人の境界においてどちらともつかない状態になることが多くなっているのは当然のことである。現在において個々人の大人になるためのイニシエーション儀礼とでもいうべきことが個人として生じている。ある種の死と再生の体験である。現代のイニシエーションの特徴として一回で終わらないことが多いことを知っていなくてはならない。一般的にはイニシエーション的状況が何回か繰り返されて大人になっていくと考えるのが妥当。

現代人の大人になるという課題のむずかしさを理解するうえでよく分かったように思います。

 この記事もう四回も、ない頭をひねりながら途中まで書きかけて記事が消えてしまいエネルギーが残っていません。掲載をやめろということなの?と少し怒っていますが誰に対して?自分にたいしてなんですよね。以下次回にします。


考えるということ。 [日々のくらしから 家族、社会、自問]

 阿弥陀の本願ってどういうことだろう。私流に思った、もしかしたらちがうかもしれないが。阿弥陀様の本願って本当はすごいことなんだなと思う。この世界に生まれ、今生きている人もすでに物故となっている人も、どんな形で、どこで生きている人であっても、すべての人の苦悩、喜怒哀楽のすべてを心に刻んで、心から大切に思わずにいられないという。そこにあるのは通りいっぺんの善悪ではない。「考えること」は阿弥陀の願いのような生きとし生けるものへの分け隔てない慈愛、存在への深い理解と愛から出発し考えることなのではないだろうか。

 岩波ホールで「ハンナ・ハーレント」が今上映されている。行けるときに行かなくちゃとこれという予定がなかったので急ぎ出かけた。この日は秋らしい気持ちのよい晴天でした。適当、ゆるきゃらの普段のくせが災いして神保町についたときはとうに昼過ぎ、二時近く。二回目の上映がはじまってしまっているかしらと気が急いたが、間に合ったと思った時、満席のため券の発売が終了しましたという説明、仕方なく、夕方の上映まで待つことにしました。この日は古本祭りで通りという通りが人と書籍にうめつくされていました。あまりの本の多さと人ごみに何か探そうという気分にもなれず人ごみを分けて進みながら、二、三度、立ち止まって、二冊購入。「うつと上手につきあう心理学」と「残したいね日本の風景」しめて400円でした。裏通りのコヒー店へ入って食事。シャンソンが流れる落ち着けるカフェでした。メニューはカレーとスパゲティだけですが、少し甘みのある、深みのあるおいしいカレーでした。買った本を拾い読みしてこちらも買ってよかったと満足、ゆっくりしたコヒータイムを過ごせて得した気分でした。

 肝心の映画は考えるということについて、なんどもなんども幾重にも深い問をつきつけられました。

 ハンナ・アーレントがエルサレムの法廷でのアイヒマンに発見したのは凡庸な人間の悪の無思考性でした。非人間的な状態が、あたかも当たり前でノーマルででもあるかのように進行するとしたら恐ろしいことです。理解しなければならないと思います。とても難しいことですが。

「思考しても人の英知など得られない。役に立たないのだ。思考しても世の中の謎が解けるわけではない。我々は生きている。我々には命があるからだ。」これはナチスの台頭を前にして(ナチス親衛隊に参加したハンナ・アーレントの師)ハイデッカーがハンナに語っている言葉です。戦後、ハンナ・アーレントはハイデッカーに再会しますが、「ここに来たのは理解するためよ」というハンナにハイデッカーはこんな言葉を語っています。

 「私は無自覚で夢見がちは子供だった。私には政治的な才もない。だが、この間に学んだよ。今後はさらに学んで考え抜くつもりだ」と。

 見ること、感じること、思うこと、考えることによって希望につながると思いたい。


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